Sottsass

昨年末にエットーレ・ソットサス氏が逝去されたようだ。

Ettore Sottsass, Designer, Is Dead at 90

ALESSIに寄ったら年明けセールをやっていたので前から気になっていたNuovo Milanoを衝動買いした。

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Super Normal展でも取り上げられていたソットサスの手によるカトラリーである。もし卵を究極のデザインとするならば、それにかなり迫っている感じがする。究極のフォーク、究極のスプーン。Valentineやメンフィスでの過激な作品群で知られているソットサスがこういう王道中の王道みたいなものをデザインしているのが興味深い。ちょっとダリの「パン籠」を彷彿とさせる。

ソットサスによれば、デザインとは

デザインに対して唯一配慮されるべきことは、儀式の進行を促進できるオブジェをつくろうとすることです。すなわち、もろく、はかなく、不合理であやうい日々の状態のなかで、ふと凝縮できる瞬間をもたらすことができるような移行をおこすこと、それがデザインなのです。
(E.Sottsass)

ということらしい。

含蓄がありすぎて私には完全には咀嚼できていないが、優れたデザインの品々を日常生活で使うとき、思わず居住いを正される感じを持つことがある。静止した物体であるにもかかわらず、それを使うことで時間の質が変化するみたいな感覚。そういうことなのだろうか。深澤直人氏が「張り」と表現するものに通じているかも知れない。


余談ですが最近「インタラクション・デザイン」と言う言葉に少し違和感を持っている。たぶん、こういった「居住いを正す」ような感覚に、現状のHCIがまだまだ到達できていないからだと思う。その中途半端な過程を「デザイン」と安易に呼んでしまう鈍さみたいなものが気になりだしたりしているのだが、そんなことないですか。