サイバネティックスはいかにして生まれたか
自分メモ。半世紀以上前に書かれた本だが今のコンテキストで読み返してみても新鮮だ。
通信は社会のセメントである。社会とは、たんに個人的な闘争や生殖のために相い会する個人の集りにすぎないものではない。社会を社会たらしめている本質は、より大きな有機体の中でこれらの個人が行う親密な相互作用である。社会はそれ自身の記憶を持っている。この記憶はその社会に属するどの個人の記憶よりずっと永続的であり、ずっと多様である。
サイバネティックスの立場からみれば、世界は一種の有機体であり、そのある面を変化させるためにはあらゆる面の同一性をすっかり被ってしまわなければならないというほどぴっちり結合されたものでもなければ、任意の一つのことが他のどんなこととも同じくらいやすやすと起こるというほどゆるく結ばれたものでもない。
生命とは、永遠の形相のもとにおける存在の過程ではなく、むしろ個体とその環境との相互作用である。
情報を測定するのには、イエスかノーの数によって測定するのが便利だということにみんなが気づき、いつのまにか、この情報単位としてビットという言葉がきまった。
「サイバネティックスはいかにして生まれたか」(原題:I Am a Mathematician)ノーバート・ウィーナー