Ubicomp, Mark Weiser, 梅棹忠夫

先日、北京で開催されたユビキタスコンピューティングの国際学会 Ubicomp 2011 で、Mark Weiser の Scientific American論文"Computer for the 21th Century" 20周年記念のパネルセッションが開催された。

http://www.ubicomp.org/ubicomp2011/panel.html

セッションチェアは元Xerox PARC, 現Georgia TechのBeth Mynatt, パネリストはWeiserの同僚でもありPARCの所長でもあったJohn Seely Brown (JSB), UC IrvineのPaul Dourish, Georgia Tech のGregory Abowd, と私(暦本) だった。

Weiser の"Computer for the 21th Century" は、コンピュータサイエンスの論文としてもっとも重要かつビジョン指向の論文のひとつであり、その後の情報通信技術の方向性を決定づけたといってもよい。冒頭の美しい文章:

The most profound technologies are those that disappear. They weave themselves into the fabric of everyday life until they are indistinguishable from it.
(もっとも深淵なる技術はみえなくなる。それ自身が生活の一部として織り込まれ、不可分のものとなる)

からもわかるように、ユビキタスというのは単にコンピュータが沢山あることではなく、生活の背景に技術が溶け込んでいくありさまを指向している、つまりCalm Technology(静かな技術)というのがWeiserの哲学である。この論文が醸し出す一種独特な格調の高さと、永遠に新しく見える何かには、再読するたびに強く感銘を受ける。すべての古典がそうであるように。パネリストのGregory Abowdも、「年に一度は読み返している」と言っていた。

そこから20年、我々は何を成し遂げてきたか。そして未来に向けて何をすべきなのか。

パネルセッションはJSBのWeiserとの回想にはじまった。Mark Weiserはすぐれた科学者であると同時に傑出したビジョナリーであり、人間をもっとも深いレベルで考えている、という趣旨で、ショーペンハウアーの言葉を引いていた:

“Thus, the task is not so much to see what no one yet has seen, but to think what nobody yet has thought about that which everybody sees.”

私自身は、Weiser以降のUbicompの広がりが、文明の発達過程を逆にたどりながら、より生活の基盤となる分野に浸透してきていると指摘した。人類学者/文明学者であり日本を代表するビジョナリーでもある梅棹忠夫の「情報産業論」になぞらえて、文明の進化を内胚葉(農業時代)→中胚葉(工業時代)→外胚葉(情報時代)とするならば、Ubicompは外胚葉時代から逆に文明を遡り、農業(食)やエネルギー、健康などに浸透してきている。

パネルでは時間の都合上、詳しく説明できなかったが、梅棹は「知的生産の技術(1969)」のなかでも"Calm Computing"に関連することを述べている:

秩序としずけさ
… 知的生産の技術の話全体が、能率の問題としてうけとられやすいのである。しかし、じっさいをいうと、こういう話は能率とは無関係ではないにしても、すこしべつのことかもしれない。… これはむしろ、精神衛生のもんだいなのだ。つまり、人間を人間らしい状態につねにおいておくために、何が必要かということである。… 整理や事務のシステムをととのえるのは、「時間」がほしいからではなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからである。
梅棹忠夫「知的生産の技術」)

国際会議の出席者がどれくらい梅棹忠夫とその言説を認知しているかはわからない(たぶんほとんど知られていないだろう)。が、個人的には文明を 「装置+社会の系(システム)」 として捉えていた梅棹の文明論とUbiquitous Computing, Calm Computingの関連についてはもっと考えてみたいと思っている。それは、工学/技術としてのUbicompから、「システム文明論」としてのUbicompへの発展につながるという思いも含んでいる。

一方、Gregory Abowdはこのように拡大しているUbicompについて、領域としてのidentity crisisが起きていると指摘している。たしかに、すべてのコンピュータサイエンス(あるいはすべての「技術」)は何らかの意味でUbicompであるし、実際にUbicompの学会が捉えていないアクティビティのほうがむしろ重要になってきているのかも知れない。彼は問う:「もしMark Weiserが生きてたとして、彼はこの学会に参加するだろうか」。

パネルセッションのプレゼンテーション部分は録画されているのでより詳しくは以下からどうぞ:

http://www.slideshare.net/search/slideshow?searchfrom=header&q=%22ACM+UbiComp+2011+Panel%22